直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。
問:仏教の袈裟に秘められた「最も大切なこと」は何でしょう?
- 高価な素材を使うこと
- 美しい色やデザインにすること
- 仏陀から正しく伝えられた様式を守ること
正解は記事の最後で発表しますので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!
この仏衣仏法の功徳(くどく)、その伝仏正法(でんぶっしょうぼう)の祖師(そし)にあらざれば、余輩(よはい)いまだあきらめず、しらず。諸仏のあとを欣求(ごんぐ)すべくば、まさにこれを欣楽(ごんぎょう)すべし。たとひ百千万代ののちも、この正伝を正伝とすべし。
これ仏法なるべし、証験(しょうけん)まさにあらたならん。水を乳(ちち)にいるるに相似(そうじ)すべからず、皇太子(こうたいし)の帝位(ていい)に即位(そくい)するがごとし。
かのかの合水(ごうすい)の乳(にゅう)なりとも、乳をもちゐんときは、この乳のほかにさらに乳なからんには、これをもちゐるべし。たとひ水(みず)を合(ごう)せずとも、あぶらをもちゐるべからず、うるしをもちゐるべからず、さけをもちゐるべからず。この正伝もまたかくのごとくならん。たとひ凡師(ぼんし)の庸流(ようる)なりとも、正伝あらんは、用乳(ようにゅう)のよろしきときなるべし。
いはんや仏仏祖祖(ぶつぶつそそ)の正伝は、皇太子の即位のごとくなるなり。俗(ぞく)なほいはく、先王(せんのう)の法服(ほうぶく)にあらざれば服せずと。仏子(ぶっし)いづくんぞ仏衣(ぶつえ)にあらざらんを著(き)せん。
現代語訳と背景
この仏の袈裟と仏法の功徳は、仏の正法を伝える祖師でなければ、他の者には理解できません。ですから、諸仏の足跡を喜び求めるのであれば、まさに仏の正法を伝える祖師を願い求めるべきです。
たとえ百千万代先の祖師の後であっても、この祖師が正しく伝えた仏法を、正しい伝統の仏法とすべきです。これこそが真の仏法であり、その証拠は明確に現れるでしょう。
正法を受け継ぐことは、乳に水を薄めるようなことをしてはいけません。それは、皇太子が帝王に即位するように、正法をそのまま受け継ぐべきです。
もし、水を混ぜた乳であったとしても、他に乳がない場合はそれを使うべきです。しかし、たとえ水を混ぜていなくても、油や漆や酒(異質なもの)を使ってはなりません。
この正しい伝統の仏法も同じです。たとえ平凡な師の門流であっても、正しい伝統の仏法であるならば、これを用いるべきです。
ましてや、仏から祖師へと代々伝えられた正伝は、皇太子が帝位に即位するように、すべてが受け継がれたものです。
世間の人ですら「先代の王の着られた法服でなければ着ない」と言うのですから、まして仏弟子が、仏の袈裟でないものをどうして着られましょうか。
語句説明
- 欣求(ごんぐ) / 欣楽(ごんぎょう): 喜び求めること、喜び願うこと。
- 正伝(しょうでん): 仏祖が代々正しく伝えてきた教えや作法、またはその袈裟。禅宗では師が自分の袈裟を弟子に与えることで、正しく教えを伝えた証としました。
- 合水の乳(ごうすいのにゅう): 水で薄められた牛乳のこと。仏法の教えに異質なものが混じり、純粋さが失われることの比喩として用いられます。
- 皇太子の即位(こうたいしのそくい): 正統な継承が、何の混じり気もなく、そのまま完全に行われることの比喩。
- 凡師の庸流(ぼんしんようる): 平凡な師の門流。道元禅師は、たとえ平凡な師からであっても、その法が「正伝」であるならば受け入れるべきだと説いています。
- 先王の法服(せんのうのほうふく): 儒教の『孝経(こうきょう)』にある故事に由来し、伝統や正しい規範に従うことの重要性を指します。
詳細な解説:袈裟に込められた「正しさ」の追求
1.袈裟は仏の「生きた象徴」
袈裟は単なる僧侶の衣服ではありません。それは「仏弟子の標幟(ひょうし)」、つまり仏弟子であることの目印であり、諸仏が敬い帰依するもの、さらには「仏身(ぶっしん)」「仏心(ぶっしん)」そのものであると説かれます。
袈裟には、「解脱服(げだつふく)」「福田衣(ふくでんえ)」など、実に様々な尊い呼び名があります。袈裟を身につけることには、以下の「十の優れた利益(りやく)」があると言われています。
- 羞恥を遠ざけ、善法を修行できる。
- 寒さ暑さ、蚊や毒虫から身を守り、安穏に修行できる。
- 出家僧の姿を示し、見る者の邪心をなくす。
- 人間界や天上界の宝の旗印であり、尊重敬礼すれば福を生む。
- 身につければ自らが宝の旗印であると感じ、罪が滅び福徳が生じる。
- 壊色(くすんだ色)に染めることで、五欲(名誉欲、色欲、食欲、財欲、睡眠欲など)から離れる。
- 煩悩を断ち、幸福の収穫を得る良田となる。
- 罪業が消滅し、十善業道(正しい行い)が増長する。
- 菩薩の道が増長する。
- 煩悩の毒矢から身を守る甲冑となる。
これらの功徳は、修行者の猛烈な努力だけによるものではなく、「袈裟の神力(じんりき)は不思議なり」と述べられるように、袈裟自体が持つ特別な力によると強調されています。
驚くべきことに、たとえ戯れや自己の利益のために身につけたとしても、それは必ず仏道を悟る「因縁(いんねん)」となる、とさえ説かれています。
これは、袈裟に触れること自体が、計り知れない善なる種を蒔く行為となることを意味するのです。
2.「正伝」の袈裟にこだわる理由
道元禅師が袈裟において特に重視したのは、「正伝」という概念です。
これは、仏陀から摩訶迦葉(まかかしょう)へ、そして達磨大師(だるまだいし)を経て中国の六祖慧能(えのう)まで、代々途切れることなく正しく受け継がれてきた袈裟と、その袈裟と共に伝えられた仏法を指します。
禅師は、中国で目にした、僧が袈裟を頭上にいただいて敬う作法に深く感動しました。なぜなら、それは『阿含経(あごんきょう)』に書かれていた作法であり、日本の仏教界では見られなかった「正伝」の姿だったからです。
この「正伝」こそが、仏法を水で薄めたり、異物を混ぜたりすることなく、純粋なまま後世に伝える唯一の道であると禅師は考えました。
このため、中国で新たに作られた袈裟(新作袈裟)や、戒律の専門家が提唱した新しい作り方(律学の袈裟)に対して、道元禅師は非常に厳しい見解を示しています。袈裟の「正伝」を守ることは、仏の教えそのものの純粋性を守ることに他ならない、という強い信念があったのです。
3.質素さの中に宿る尊厳:袈裟の材料と作法
正伝の袈裟の材料として最も清浄とされたのは、実は「糞掃衣(ふんぞうえ)」、つまり捨てられたぼろ布を拾い集めて作った衣です。
牛に噛まれた服、火で焼かれた服、墓場に捨てられた死人の服など、十種類の糞掃が挙げられます。これは、世俗的な価値観を超え、質素さの中にこそ仏教の真髄があると考える表れでしょう。
道元禅師は、この糞掃衣を「絹や麻、綿といった素材の区別を捨てて、ただ糞掃衣として学ぶべきだ」と説きます。これは、外見や素材に囚われず、その本質、すなわち仏法の精神を体現しているかどうかが重要であるという教えです。
袈裟の作成や着用にも、細やかな作法が定められています。縫い方にはいくつかの種類があり、必ず「返し縫い」を用いるべきとされます。色は青、黄、赤、黒、紫色を「壊色(えしき)」、つまりくすんだ色に染めます。
袈裟を洗う際も、畳まずに湯桶に浸し、もみ洗いせずに垢や油が落ちるまで洗い、沈香(じんこう)や栴檀香(せんだんこう)を混ぜた冷水で清める、といった丁寧な手順があります。そして、着用する前には、頭上にいただいて偈(げ)を唱え、師や尊い仏舎利の塔のように敬うのです。
日本には「糞掃衣」が少ないため、施主からの布施や、清浄な生活で得た財で布を買い求めることが許されています。
また、末法の世である日本では、袈裟を縫い上げる期間の厳格な規定よりも、信心をもって早く身につけること自体が大切であると、禅師は現実的な視点も示しています。
袈裟が教えてくれること
袈裟は、単なる一枚の布ではありません。それは、仏陀の時代から連綿と受け継がれてきた、仏教の「正伝」そのものです。その質素な姿の中に、煩悩からの解脱、善行の増長、そして悟りへの道という、計り知れない功徳が宿っています。
道元禅師は、遠く離れた日本の地で、この純粋な仏法、そしてその象徴である袈裟の「正伝」を伝えようと、並々ならぬ情熱を注ぎました。袈裟を身につけ、その作法を守ることは、仏祖の精神を自らのものとし、仏道の真髄を追求することに他ならないのです。
現代の私たちも、日常生活の中で「本質」と「形式」の関係を考えるきっかけとして、この袈裟の教えを受け取ることができます。見かけだけにとらわれず、その中に込められた意味や歴史、そして何よりも「正しさ」を追求する姿勢は、どのような分野においても大切なことではないでしょうか。
さて、冒頭のクイズの答えです。
問:仏教の袈裟に秘められた「最も大切なこと」は何でしょう?
正解は…3.仏陀から正しく伝えられた様式を守ること
でした!
袈裟に込められた深い意味と道元禅師の情熱を感じていただけたでしょうか。この記事が、皆さんの仏教や日本文化への理解を深める一助となれば幸いです。