直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。
袈裟の功徳について、以下の記述のうち、正しいものはどれでしょう?
- 袈裟は単なる布であるため、その材質によって功徳は変化する。
- たとえ悪事をなす者が袈裟を身につけても、いずれ悟りへの因縁となる。
- 袈裟を身につけることは、修行者の強い精進の力によってのみ功徳が生まれる。
記事を読み進めながら、答えを見つけてみてくださいね。
原文
われら出家受戒のとき、身心依正(シンジンエショウ)すみやかに転ずる道理あきらかなれど、愚蒙(グモウ)にしてしらざるのみなり。
諸仏の常法、ひとり和修鮮白(ワシュセンビャク)に加して、われらに加せざることなきなり。随分の利益(リヤク)、うたがうべからざるなり。
かくのごとくの道理、あきらかに功夫(クフウ)参学(サンガク)すべし。善来得戒(ゼンライトッカイ)の披体(ヒタイ)の袈裟、かならずしも布にあらず、絹にあらず、仏化(ブッケ)難思(ナンシ)なり。衣裏(エリ)の宝珠は算沙(サンジュ)の所能にあらず。
現代語訳
私たちが出家し戒を受けた時、身心とその環境がたちまち変わるという道理は明らかであるにもかかわらず、私たちは愚かなので、そのことに気が付かないだけなのです。
諸仏の変わることのない教えは、商那和修尊者や鮮白比丘尼といった特定の人々だけに与えられて、私たちに与えられないということはありません。
私たちにも、分相応の利益があることを疑ってはなりません。このような道理を、はっきりと精進して学びなさい。
釈尊に「よく来た」と呼び掛けられて出家し戒を受けた者が、その身に着けていた袈裟は、必ずしも麻や綿であるとは限りません。
仏の教化は思量し難いものです。袈裟の奥に隠された宝珠は、経典の教えを無益に数え上げる学者の知る所ではないのです。
語句説明
- 出家受戒 (しゅっけじゅかい):仏門に入り、戒律を受けること。
- 身心依正 (シンジンエショウ):身体と心、そしてその環境。
- 愚蒙 (グモウ):愚かで道理がわからないこと。
- 和修鮮白 (ワシュセンビャク):商那和修尊者と鮮白比丘尼のこと。生まれた時から衣を身につけていたと伝えられ、出家時にそれが袈裟になったという伝説上の人物。
- 利益 (リヤク):ご利益、恵み。
- 功夫参学 (クフウサンガク):熱心に修行し学ぶこと。
- 善来得戒 (ゼンライトッカイ):釈尊が「よく来た」と呼びかけて出家・受戒させたという故事。
- 仏化難思 (ブッケナンシ):仏の教化は人間の思量では計り知れないこと。
- 衣裏の宝珠 (エリのほうじゅ):衣の裏に隠された宝珠。経典に説かれる比喩で、仏性や悟りの智慧を指す。ここでは袈裟の持つ奥深い功徳の象徴。
- 算沙 (サンジュ):砂を数えるように、無益に言葉や知識を論じたりすること。
詳細な解説
袈裟は「仏性」の象徴
『正法眼蔵』において、袈裟は単なる衣服ではありません。それは「仏身なり、仏心なり」とまで称され、解脱服、福田衣、無相衣、無上衣、忍辱衣、如来衣、大慈大悲衣、勝幡衣、阿耨多羅三藐三菩提衣といった様々な尊い呼び名で呼ばれます。
この衣を身につけることは、修行者の内にある仏性が顕現すること、そして身心の果報がたちまち変わるという深遠な意味を持っています。たとえ、私たちがその道理を愚かさゆえに自覚できなくても、その効果は明らかであると説かれています。
伝説が示す袈裟の超越性
原文で触れられている商那和修尊者と鮮白比丘尼の例は、袈裟の超越的な性質を象徴的に示しています。彼らは生まれた時から身につけていた俗衣が、出家受戒の時にそのまま袈裟に変じたと伝えられます。
これは、袈裟が特定の材質(絹や綿など)に限定される物理的な存在ではなく、仏の教化(仏化難思)によって変容する、あるいは仏性の現れとしての意味を持つことを教えています。
禅師は、この伝説的な話から、袈裟は私たちが考える「布」や「絹」といった範疇を超えた、仏道の奥深い教え(玄訓)そのものであると強調します。
行者の努力を超えた袈裟の神力
袈裟の功徳は、修行者の「猛利恆修(猛烈で鋭利で恒常的な修行)のちからにあらず」(修行者の努力によるものではない) とも説かれています。
袈裟の持つ神力は不思議であり、凡夫や賢者にも計り知れないものです。実際に、袈裟を着けたことがない者が「法王身」(仏身)を悟った例は、昔から存在しないとまで言われます。
これは、形がその姿を作り、内面を作り、本質を自ずと作っていくという、禅師の「形から入る」という思想を裏付けるものです。
たとえ戯れに袈裟を身に着けた者や、自身の利益のために着た者でさえも、必ず仏道を悟る因縁となるのです。
ほんのわずかな期間でも袈裟を護持すれば、それは「無上菩提を成就する護身の札」となるでしょう。
「衣裏の宝珠」に込められた真理
「衣裏の宝珠は算沙の所能にあらず」という言葉は、袈裟の真の価値、すなわち仏性や悟りの智慧が、単に経典の言葉を数えたり、表面的な知識を蓄えたりするだけでは理解できないことを示唆しています。
それは、「物であって物ではない」、「有所住にあらず無所住にあらず」 という深遠な存在であり、ただ仏と仏の間で交感しうる真実のあり方 が袈裟に現成しているのです。
この深い功徳を学ぶには、人々や経律論に広く学ぶだけでなく、仏や祖師に参学することが求められます。袈裟に出会い、それを身につけ、護持する幸運は、過去世に植えられた善根と智慧の功徳の力によるものなのです。
問いかけとまとめ
今回の記事を通して、袈裟が単なる衣類ではなく、仏の教えそのものを象徴し、計り知れない功徳を持つ存在であることが見えてきたのではないでしょうか。日々の生活の中で、私たちも袈裟に込められた深い意味に思いを馳せ、形から入る実践の重要性を再認識できるかもしれません。
あなたにとっての「袈裟」とは何でしょうか?この教えが、あなたの心の内に新たな種を蒔くきっかけとなれば幸いです。
クイズの答え
B. たとえ悪事をなす者が袈裟を身につけても、いずれ悟りへの因縁となる。
解説:
袈裟の功徳は非常に大きく、たとえ重い戒を犯したり、誤った考えを持ったりする者であっても、一時的にでも敬いの心を持って袈裟を尊重すれば、やがて悟りの道を退転することなく進むと説かれています。
実際に、戯れに袈裟を着けた遊女が、後に悟りを得たという話も伝えられています。これは、袈裟の神力が修行者の個人的な努力や善行だけでなく、袈裟自体の持つ不思議な力によるものであることを示しています。