直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。
クイズ: 仏教の僧侶が身につける袈裟の中で、最も尊いとされる「糞掃衣」の主な材料は何でしょう?
- 高価な絹
- 捨てられたぼろ布
- 聖なる樹木の葉
原文
「その衣財(エザイ)、また絹布よろしきにしたがうてもちゐる。かならずしも布(フ)は清浄(ショウジョウ)なり、絹(ケン)は不浄なるにあらず。布をきらうて絹をとる所見なし、わらふべし。
諸仏の常法、かならず糞掃衣(フンゾウエ)を上品(ジョウボン)とす。糞掃に十種あり、四種あり。 いはゆる、火焼(カショウ)、牛嚼(ゴシャク)、鼠噛(ソコウ)、死人衣(シニンエ)等、五印度の人、此(カク)の如き等の衣、之を巷野に棄つ。
事、糞掃に同じく、糞掃衣と名づく。行者之を取って、浣洗縫治(ホウジ)して、用いて以て身に供(クウ)ず。
そのなかに絹類あり、布類あり、絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり。
糞掃衣は、むかし阿耨達池(アノクダッチ)にして浣洗せしに、龍王讃歎、雨華(ウゲ)礼拝しき。」
現代語訳
袈裟の材料は、絹であれ麻や綿であれ、適したものを使います。必ずしも麻や綿が清浄で、絹が不浄というわけではありません。
また麻や綿を嫌って絹を選ぶという考えもありません。このような考えは笑うべきものです。
諸仏のしきたりでは、必ず糞掃衣(ぼろ布で作った袈裟)を最上とします。
糞掃(ぼろ布)には十種類または四種類あります。 具体的には、焼け焦げた服、牛の噛んだ服、鼠のかじった服、死人の服などです。インド地方の人々は、これらの服を路地や郊外に捨てたのです。 それはぼろ布と同じなので、糞掃衣と呼ぶのです。修行者はこれを拾って洗い、縫い直して身に着けるのです。
糞掃衣(ぼろ布で作った袈裟)の中には絹の類があり、麻や綿の類がありますが、絹や麻綿という見方を投げ捨てて、糞掃というものを学びなさい。
糞掃衣は、昔、出家者がそれを阿耨達池(ヒマラヤ山脈の北にあるという池)で洗っていると、そこに棲む龍王が賛嘆し、花を降りそそぎ、礼拝したといわれます。
語句説明
- 糞掃衣(ふんぞうえ): 人が捨てたぼろ布を拾い集めて作った衣。仏道において最も清浄で尊いとされる袈裟。
- 火焼衣(かしょうえ): 焼け焦げた服。
- 牛嚼衣(ごじゃくえ): 牛が噛んだ服。
- 鼠嚙衣(そこうえ): 鼠がかじった服。
- 死人衣(しにんえ): 墓場に捨てられた死人の服や、葬儀で死者に掛けられていた服。
- 五印度(ごいんど): インドの五つの地域(東・西・南・北・中インド)。
- 阿耨達池(あのくだっち): ヒマラヤ山脈の北にあるとされる伝説上の池。
- 壊色(えしき): 黒ずんだ、くすんだ色。袈裟の色として定められる。
詳細な解説
袈裟の「清浄さ」とは何か?
道元禅師は、袈裟の材料について、絹か麻や綿かという材質による優劣の議論を「笑うべし」と退けています。
これは、特定の材質が清浄で、別の材質が不浄だという考え方が、人間の恣意的な思量に過ぎないと見ているからです。
かつて、蚕の繭から作られる絹は殺生にあたるため法衣に不適当だという「化糸(けし)の説」がありましたが、禅師はこれを「根拠のない考え」と批判しました。
禅師にとって重要なのは、その衣がいかなる原材料から作られたかではなく、いかにして得られたか、そしてそれをどのように「糞掃」として捉えるかという点です。
糞掃衣は、世間の人々が価値を認めず、汚れて捨て去ったものであり、そこに世俗的な執着の対象となる要素はありません。この「執着を離れた絶対の真実」を象徴するからこそ、糞掃衣は「最上清浄」の衣とされるのです。
仏の教えが宿る「衣」
袈裟は単なる衣服ではありません。それは「仏弟子であることの目印」であり、仏の身体であり、仏の心そのものであるとされます。例えば、「解脱服」「福田衣」「無相衣」「如来衣」など、その功徳と本質を表す様々な呼び名があります。
また、商那和修尊者や鮮白比丘尼の伝説は、この袈裟が持つ超越的な力を示唆しています。彼らが生まれた時から身につけていた俗服が、出家受戒の際に袈裟に変じたという話は、袈裟が物質的な制約を超え、仏法の功徳によって身心の果報を変えることを示しています。
さらに、袈裟は計り知れない「神力」を持つと説かれます。袈裟の一筋の糸を身につけた龍が金翅鳥王に食べられる難を免れ、袈裟に一角が触れた牛が罪を消滅させたという逸話は、袈裟が衆生を救い、煩悩や災難から護る力を宿していることを物語っています。
現代に受け継ぐ糞掃衣の精神
道元禅師の時代、日本には「正伝の糞掃衣」がないと嘆かれました。鎌倉時代の日本は貧しかったため、多くの人々がぼろ布をあさった結果、糞掃が手に入りにくかったという背景もあります。
しかし、禅師は、たとえ糞掃衣が手に入らなくても、施主の布施や清浄な生活で得た布で袈裟を作ることを許容し、「末法悪時世」の日本においては、信心に促されて袈裟を身につけることが何よりも大切だと説きます。
袈裟を身につけることは、修行者の「猛烈で鋭利で恒常的な修行」(猛利恆修)の力以上に、袈裟そのものが持つ功徳によって仏道が成就するとされます。袈裟は、その身を覆うことで羞恥を遠離し、寒熱や虫獣から身を守り、出家僧の姿を示現することで見る者に歓喜を与え、邪心を遠ざけるなど、「十勝利」と呼ばれる多くの利益をもたらすのです。
問いかけとまとめ
「糞掃衣」という言葉から受ける印象と、それが仏道で最も尊いとされる事実。このギャップこそが、仏教の奥深さ、そして世俗的な価値観を超えた真実を示しています。私たちは、普段の生活の中で「価値がある」と見なすものにどれほど執着しているでしょうか?
袈裟は単なる布切れではなく、仏の智慧と慈悲、そして執着から解放された清浄な精神の象徴です。
たとえ今、私たちは「糞掃衣」を実際に身につけることがなくても、その精神を理解し、「絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり」という教えを心に刻むことは、現代社会を生きる私たちにとっても、執着を手放し、本質を見極めるための大切な指針となるでしょう。
クイズの答え
B. 捨てられたぼろ布
解説: 仏教の僧侶が身につける袈裟の中で、最も尊いとされるのは、人が価値を見なさず捨てたぼろ布を拾い集めて作られた「糞掃衣」です。これは、世俗的な価値観や執着から離れるという仏道の精神を象徴しています。