袈裟はただの服ではない?禅師が語る「正伝の袈裟」の奥義

直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。

クイズ:道元禅師が「正しい伝統の袈裟ではない」と批判した袈裟は、誰が作ったとされるものでしょうか?

  1. 中国の皇帝
  2. 律宗の僧・道宣
  3. 在家の信者

それでは、袈裟の奥深い世界へ旅立ちましょう。


原文

「正伝の袈裟といふは、少林曹谿正伝しきたれる、如来の嫡嫡相承(ソウジョウ)なり、一代も虧闕(キケツ)なし。

それ法子法孫の著(ヂャク)しきたれる、これ正伝袈裟なり、唐土の新作は正伝にあらず。

いま古今に、西天よりきたれる僧徒の所著(ショジャク)の袈裟、みな仏祖正伝の袈裟のごとく著せり。一人としても、いま震旦新作の律学のともがらの所製の袈裟のごとくなるなし。

くらきともがら、律学の袈裟を信ず、あきらかなるものは抛却(ホウキャク)するなり。」

現代語訳

「正しい伝統の袈裟とは、少林寺の達磨大師から曹谿山の六祖慧能禅師へと正しく伝えられ、釈尊から歴代の祖師へと一度も途切れることなく受け継がれてきた袈裟のことです。

釈尊の弟子やその子孫たちが身につけてきた袈裟が、まさにこの正しい伝統の袈裟であり、中国で作られた新しい様式の袈裟は、正伝の袈裟ではありません。

古今東西を見ても、インドから来た僧たちが身につけていた袈裟は、皆、仏祖が正しく伝えてきた袈裟と同じようなものでした。現代の中国で新しく作られた、律(僧侶の生活規律)の学者が定めたような袈裟を身につけていた者は一人もいませんでした。

正しい伝統の袈裟を知らない者たちは、律学の袈裟を信じていますが、真にその意味を知る者はそれを捨てるのです。」

語句説明

  • 正伝(ショウデン):正しく伝えられた伝統のこと
  • 嫡嫡相承(チャクチャクソウジョウ):嫡子から嫡子へと代々受け継がれること
  • 少林曹谿(ショウリンソウケイ):中国禅宗の聖地。少林は達磨大師が禅を伝えたとされる場所、曹谿は六祖慧能禅師が法を伝えた場所
  • 虧闕(キケツ):欠けること、途切れること
  • 法子法孫(ホッシホウソン):仏法の弟子やその子孫
  • 唐土(トウド):中国の別称
  • 震旦(シンタン):中国の別称
  • 西天(サイテン):インドのこと
  • 律学(リツガク):僧侶の戒律を学ぶ学問、または律宗のこと
  • 抛却(ホウキャク):投げ捨てること

詳細な解説

「正伝」の袈裟とは?その歴史的背景

袈裟は、単なる僧侶の衣服ではありません。それは、釈迦牟尼仏が摩訶迦葉(まかかしょう)に仏法の真髄である無上の悟りを授けた際、共に伝授された特別な「衣法(えほう)」(衣と法)なのです。
この衣法は、インドで28代、中国で5代にわたり、嫡子から嫡子へと「面授相承」(師から弟子へ直接手渡しで伝えられること)されてきました。
中国では、達磨大師が禅宗の初祖としてこの衣法を伝え、六祖慧能禅師に至るまで、その「正伝」が一度も途切れることなく続いてきたとされます。

道元禅師は、この「仏仏祖祖相伝の袈裟」こそが、仏法の真髄であり、仏の身体であり、仏の心そのものであると強調しています。
袈裟には、「解脱服」「福田衣」「無相衣」「無上衣」「忍辱衣」「如来衣」「大慈大悲衣」「勝幡衣」「阿耨多羅三藐三菩提衣」など、様々な尊い呼び名があります。

袈裟が持つ驚くべき功徳

袈裟を身につけること、あるいは袈裟に触れることには、計り知れない功徳があると説かれています。

釈尊は、かつて宝蔵仏の前で「もし自分の袈裟を身につけた者が、たとえ重い戒を犯したり、邪見を抱いたりしても、少しでも恭敬の心で袈裟を尊重すれば、必ず将来仏となるであろう。もしそれが叶わなければ、私は決して仏の悟りを成就しない」と誓願を立てました。この誓願により、袈裟の功徳はさらに無限のものとなったとされます。

袈裟を身につけることによる具体的な「十勝利」も説かれています。

  1. 身を覆い、羞恥を遠離し、善法を修行できる。
  2. 寒さや暑さ、虫や悪獣から身を守り、安穏に修道できる。
  3. 出家僧の姿を示し、見る者に歓喜と邪心の遠離をもたらす。
  4. 人天の宝幢(仏法の旗印)であり、敬礼すれば梵天に生まれる。
  5. 袈裟を着ける時に宝幢の想いを生じ、罪を滅し福徳を生む。
  6. 五欲を離れ、貪愛を生じない。
  7. 煩悩を断ち、幸福の良田となる。
  8. 罪業が消え、十善業道が増長する。
  9. 菩薩の道が増長する。
  10. 煩悩の毒矢から身を守る甲冑となる。

これらの功徳は、修行者の猛烈な努力(猛利恆修)によるものではなく、袈裟そのものが持つ不思議な神力によるものだとされています。袈裟を身につけなければ仏身を悟った例は、昔から存在しないとまで言われます。たとえ戯れに袈裟を身につけただけでも、あるいは自分の利益のために着たとしても、それは必ず仏道を悟る因縁となるのです。

「律学の袈裟」とは何か?道元禅師の批判の真意

原文で道元禅師が批判している「律学の袈裟」とは、唐代の律宗の祖である南山道宣(なんざんどうせん)が定めた、新しい袈裟の作り方を指します。
道宣は、この作り方を「天人から教えられた」と記していますが、道元禅師はこれを「馬鹿げた説」と厳しく批判しています。禅師は、「天人に教えてやるのが仏弟子である」と述べ、道宣の見解をはるかに超えた仏法の眼を示しています。

道元禅師にとって、袈裟の材質や製法は、世間の評価や恣意的な解釈に基づくべきではなく、「糞掃衣(ふんぞうえ)」(捨てられたぼろ布を集めて作った衣)を最上とする本来の仏祖の伝統に則るべきでした。
道元禅師は、「絹や麻・綿かといった見方を捨てて、ただ糞掃というものを学びなさい」と述べ、袈裟の本質がその素材にあるのではなく、執着を離れた「絶対の真実」を象徴する点にあると説いています。

袈裟が形作る仏道修行

道元禅師は、「形がその姿を作り、内面を作り、本質を自ずと作っていく」という思想を重視しています。心を正そうとしても難しいが、形から入ることは容易であり、その形を整えることで本質が理解され、身につくと考えます。

袈裟を身につけることは、まさにこの「形から入る」修行の最たるものと言えるでしょう。毎日、袈裟を頭に頂いて合掌し、特定の偈文を唱えてから身につける作法も大切にされています。道元禅師が宋で修行中に、隣の僧が袈裟を頭に頂いて敬う姿を見て感銘を受け、涙を流したエピソードは、袈裟の持つ精神的な重みを物語っています。

在家者も袈裟を身につける意義

袈裟の受持は、出家者のみならず、在家の者にとっても大乗の教えの究極の秘訣とされています。中国の梁の武帝や隋の煬帝、唐の代宗や粛宗といった歴代の皇帝たちも、在家者として袈裟を受持し、菩薩戒を受けていました。日本でも、聖徳太子が袈裟を受持し、講義の際に奇瑞を感得したことが伝えられています。

道元禅師は、たとえ高貴な身分であっても、袈裟を受持し菩薩戒を受けることが「人間として最高の慶び」であると述べています。

日本における袈裟の現状と禅師の願い

道元禅師は、自身の時代(鎌倉時代)の日本が、インドや中国から遠く隔たった「辺地末法」の世であると嘆いています。
当時の日本の僧侶の中には、剃髪して仏弟子と名乗りながらも、袈裟を護持せず、その真意を知らない者が多かったようです。禅師は、これは自国の僧が中国や高麗(朝鮮)の僧と同じく、袈裟の真の姿を理解していないからだと戒めています。

禅師は、このような末法の世に、釈尊から続く「正伝の衣法」に出会えたことは、計り知れない喜びであるとし、自らの過去世の善根と智慧の功徳の力によるものだと感謝しています。そして、「我々は釈尊の遠い子孫なのだから、この伝統に学び、徒に名誉や利益のために天や神、王や臣を拝むのではなく、仏袈裟を頭に頂いて敬うことに心を向けるべきだ」と、強く弟子たちに説き勧めています。


問いかけとまとめ

袈裟は、単なる一枚の布や衣服を超え、仏法の真理そのものを象徴する存在です。道元禅師は、釈尊から連綿と受け継がれてきた「正伝の袈裟」を重んじ、その形と精神を正しく護持することの重要性を説きました。それは、安易な妥協や世俗的な見栄を排し、仏道修行の本質に立ち返るという、禅師の強いメッセージでもありました。

袈裟が持つ驚くべき功徳は、身につける者の内面を形作り、悟りへの道を確かに照らす護身符となります。これは、現代を生きる私たちにとっても、形や作法を軽んじることなく、その奥に込められた深い意味を理解し、実践することの大切さを教えてくれるのではないでしょうか。

私たち自身の日常生活において、「形が心を作る」という考え方から学ぶことは何があるでしょうか?

クイズの答え

B. 律宗の僧・道宣

解説: 道元禅師は、唐代の律宗の祖である道宣が「天人から教えられた」と主張して定めた新しい様式の袈裟を、「律学の袈裟」と呼び、正しい伝統のものではないと厳しく批判しました。
道元禅師は、仏道修行において、形は内面を形成する重要な要素であり、その形は仏祖から正しく伝えられた伝統に則るべきだと考えていました。

この記事を書いた人

直七法衣店 四代目 川勝顕悟


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