仏教僧の象徴「袈裟」を身につけることの深い意味と功徳

直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。

袈裟には様々な功徳があるとされますが、次のうち、袈裟を身につけることによって得られるとされている功徳として、適切でないものはどれでしょう?

  1. どんな悪事を重ねた者でも、袈裟を尊重する心があれば仏となる予言を受けられる
  2. たとえ戯れに袈裟を着けただけでも、後の世で悟りを開く因縁となる
  3. 袈裟を身につければ、自らの意思による猛烈な修行は一切不要となる

原文

搭袈裟(タッケサ)法。

偏袒右肩(ヘンダンウケン)、これ常途(ジョウズ)の法なり。
通両肩搭(ツウリョウケンタ)の法あり、如来および耆年(ギネン)老宿の儀なり。
両肩を通ずといふとも、胸臆(キョウオク)をあらはすときあり、胸臆をおほふときあり。
通両肩搭は、六十条衣以上の大袈裟のときなり。

搭袈裟のとき、両端ともに左臂肩にかさねかくるなり。
前頭は左端のうへにかけて、臂外(ヒゲ)にたれたり。
大袈裟のとき、前頭を左肩より通して、背後にいだしたれり。
このほか種々の著袈裟の法あり、久参咨問(シモン)すべし。

現代語訳と背景

袈裟を身に着ける作法は、以下の通りです。

右肩だけを肌脱いで袈裟を掛けるのが、一般的なやり方です。
また、両肩を覆うようにして掛ける方法もありますが、これは仏や長老の僧に許された特別な作法です。
両肩を覆う場合でも、胸を現わす時と、胸を覆う時があります。
この両肩を覆う着方は、特に「六十条衣」以上の大袈裟を着用する際に用いられます。

袈裟を掛ける際には、袈裟の両端を共に左の腕と肩に重ねて掛けます。
袈裟の前部の端は、左肩に掛けた袈裟の左端の上に掛けて、腕の外側に垂らします。
大袈裟の場合には、袈裟の前部の端を左肩の上から背後に出して垂らします。
これ以外にも様々な袈裟の着方がありますから、よく学び、師に尋ねて研究すべきです。

ここで「六十条衣」とありますが、これは布を60枚縫い合わせた袈裟という意味ではありません。
袈裟は、小さな布を継ぎ合わせて作るものですが、「十五条衣」という袈裟は、長い布3枚と短い布1枚を縫い合わせて1条とし、それが15条あるため、合計60枚の布を縫い合わせることから、比喩的に「六十条衣」と呼ばれることがあります。

語句説明

  • 搭袈裟(たっけさ): 袈裟を身につけること
  • 偏袒右肩(へんだんうけん): 袈裟の着方の一つで、右肩だけを肌脱ぎにする作法
  • 常途(じょうず): 通常のやり方、一般的な作法
  • 通両肩搭(つうりょうけんた): 袈裟の着方の一つで、両肩を覆う作法
  • 如来(にょらい): 悟りを開いた者、仏陀の尊称
  • 耆年(ぎねん)老宿(ろうしゅく): 年長の徳の高い僧、長老
  • 胸臆(きょうおく): 胸
  • 六十条衣(ろくじゅうじょうえ): 十五条衣のこと。長い布と短い布を組み合わせて1条とし、それが15条あるため、合計60枚の布を縫い合わせることに由来する
  • 臂外(ひげ): 腕の外側
  • 久参咨問(くさんしもん): 長い間師に従い、丁寧に教えを請い、疑問を尋ねること

袈裟に込められた深い意味

袈裟は単なる僧侶の衣服ではありません。それは「仏弟子の標幟(ひょうし)」、すなわち仏弟子であることの目印であり、諸仏が敬い帰依する「仏身」「仏心」そのものとまで言われます。
また、「解脱服」「福田衣」「無相衣」「無上衣」など、その功徳と意味を示す様々な呼び名があります。

袈裟の「着方」にみる精神性 袈裟の着方には、「偏袒右肩」と「通両肩搭」の二種類があります。
偏袒右肩は、右肩を肌脱ぐ一般的な着方です。
一方、通両肩搭は、仏や長老の僧が用いる特別な着方で、両肩を覆います。これは、より格式の高い場面や、衆生を教化する際などに用いられますこのような着方の違いは、単なる形式ではなく、身を置く状況や相手に対する敬意、そして自身の精神状態を表すものと考えられます。

袈裟がもたらす「神力」 「袈裟の神力は不思議なり」と説かれるように、袈裟には計り知れない力があるとされています。
たとえ短時間でも袈裟を身につければ、無上の悟りへの護身符となると言われます。悪事を重ねた者でも、袈裟を尊重する心があれば仏となる予言を受けられるとされます。

さらに、戯れに袈裟を身につけただけでも、後に悟りを開く因縁となるほどの功徳があるのです。これは修行者の「猛利恆修(もうりごうしゅう)」、つまり猛烈な精進の力によるものではなく、袈裟そのものが持つ不思議な力であると強調されています。

袈裟を身につけるという「形」が、その人の内面を変え、仏道を成就へと導く「本質」を作り出すと考えることができます。袈裟を着けていない者が仏身を悟った例は昔から存在しないとも述べられています。

袈裟の材料と「清浄」の概念 袈裟の材料は、もともと「糞掃衣(ふんぞうえ)」、つまり捨てられたぼろ布が最上とされていました。
牛に噛まれた服、鼠にかじられた服、焼けた服、死人の服など、人が不要として捨てたものを拾い集め、洗い、縫い直して作られました。

粗末な布が手に入らない場合は、上質な絹や皮でさえも許容されたとされます。 これは、世間的な価値観にとらわれず、清浄な心で物を受け入れ、活用することの重要性を示しています。材料の質よりも、それを仏法のために用いるという「意図」と「行為」が、袈裟を「清浄」なものにするのです。

問いかけとまとめ

袈裟を身につけることは、単なる服装のルールではなく、仏祖が代々伝え続けてきた仏法の真髄を継承し、自らがその一部となることを意味します。
たとえ辺境の地で末法の世に生まれたとしても、この正法に巡り合うことは計り知れない喜びであり、それは自身の過去世の善根によるものと説かれます。

現代の私たちも、仏教の教えや文化に触れる際、形から入ることの意味を再考してみてはいかがでしょうか。形を重んじ、作法に倣うことは、単なる模倣に終わらず、その奥にある精神性や本質を理解し、自己の内面を磨くきっかけになるかもしれません。


クイズの答え

正解は B です。

  • A. どんな悪事を重ねた者でも、袈裟を尊重する心があれば仏となる予言を受けられる
    → これは原文に「或いは重戒を犯し、或いは邪見を行ひ、若しは三宝に於いて軽毀して信ぜず、諸の重罪を集めん比丘比丘尼、優婆塞優婆夷、若し一念の中に於いて、恭敬の心を生じて、僧伽梨衣を尊重し、恭敬の心を生じて、世尊或いは法僧を尊重せん、世尊、是の如くの衆生、乃至一人も、三乗に於いて記莂を受くることを得ずして、而も退転せば、則ち十方世界の、無量無辺阿僧祇等の、現在の諸仏を欺誑すと為す」とある通り、袈裟の持つ大きな功徳の一つとされています。
  • B. たとえ戯れに袈裟を着けただけでも、後の世で悟りを開く因縁となる
    → 原文の解説に「たとひ戯笑のために利益のために身に著せる、かならず得道因縁なり」とある通り、袈裟の功徳の大きさを象徴するエピソードとして語られています。
  • C. 袈裟を身につければ、自らの意思による猛烈な修行は一切不要となる
    → 袈裟の功徳は「行者の猛利恆修のちからにあらず」(修行者の勇猛精進の力によるものではない)とされますが、これは修行が不要になるという意味ではありません。むしろ、袈裟を身にまとうことによって、そのような修行の姿が自然と生じ、内面が作られていくと考えられています。
この記事を書いた人

直七法衣店 四代目 川勝顕悟


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