直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。
クイズ:道元禅師が宋の国で目の当たりにした、袈裟を恭敬する作法「袈裟頂戴(けさちょうだい)」において、僧が袈裟を安じる場所はどこでしょう?
- 仏壇の前
- 自身の頂上(頭の上)
- 坐禅の際、膝の上
原文
予、在宋のそのかみ、長連牀(チョウレンジョウ)に功夫(クフウ)せしとき、斉肩の隣単をみるに、開静(カイショウ)のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬(クギョウ)し、一偈を黙誦(モクジュ)す。
その偈にいはく、「大哉解脱服、無相福田衣、被奉如来教、広度諸衆生。」ときに予、未曾見のおもひを生じ、歓喜みにあまり、感涙ひそかにおちて衣襟(エキン)をひたす。その旨趣は、そのかみ阿含経を披閲せしとき、頂戴袈裟の文(モン)をみるといへども、その儀則をいまだあきらめず。
いままのあたりみる、歓喜随喜し、ひそかにおもはく、「あはれむべし、郷土にありしとき、をしふる師匠なし、すすむる善友あらず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる。かなしまざらめやは。いまの見聞(ケンモン)するところ、宿善よろこぶべし。
もしいたづらに郷間にあらば、いかでかまさしく仏衣を相承著用せる僧宝(ソウボウ)に隣肩することをえん。悲喜ひとかたならず、感涙千万行。」
現代語訳
私が宋の国にいた頃、道場の長連牀(僧堂の坐禅の場所)で修行(功夫)している時のことです。私と肩を並べていた隣の僧が、坐禅が終わる時(開静)ごとに、袈裟を捧げて頭の上に載せ、合掌し敬って一つの偈文(詩)を黙って唱えているのを見ました。
その偈文は、「大いなるかな解脱の服よ、一切の執着を離れた福田の衣よ。この如来の教えを身に着け奉りて、すべての人々を悟りの世界へ渡そう」というものでした。
その時、私はそれを初めて見たという思いで、歓喜のあまり、感激の涙が人知れず落ちて衣の襟を濡らしました。なぜなら、以前『阿含経』を読んだ際に、袈裟を頭上にいただく記述(頂戴袈裟の文)は見ていたものの、その具体的な作法(儀則)は分かっていなかったからです。
今、それを目の前で見て、心から歓喜し、ひそかに思いました。「悲しいことに、日本(郷土)にいた時には、この袈裟の作法を教えてくれる師もおらず、勧めてくれる善友もいなかった。そのために、どれほど多くの時間を無駄に過ごしてしまったことか。それが残念であり悲しい。今、この作法を見聞することができたのは、きっと前世の善根(宿善)のお蔭だろう、喜ばしいことだ。
もし無駄に故郷にとどまっていたら、このように正しく仏の衣を受け継いで着用する僧(僧宝)と隣り合って肩を並べることなどできなかったであろう。この感激は並大抵ではなく、涙が止めどなく流れるばかりだ」と。
語句説明
- 長連牀(チョウレンジョウ):修行僧が坐禅や起居を行う坐禅堂にある長い寝床、または坐禅の場所
- 功夫(クフウ):ここでは禅の修行や精進を指す
- 開静(カイショウ):坐禅を終えること
- 頂戴(チョウダイ):袈裟を頭上に捧げ載せて敬う作法
- 解脱服(げだっぷく):煩悩から解脱させる袈裟の別名
- 無相福田衣(むそうふくでんえ):一切の執着を離れ、福をもたらす田に譬えられる袈裟の別名
- 僧宝(ソウボウ):仏法僧の三宝の一つ、正しい教えを修行し伝える僧侶
- 宿善(シュクゼン):過去世に植えられた善の種、功徳
詳細な解説
袈裟を「頂戴」する作法の重要性
道元禅師は、中国の天童山における修行中、袈裟を頭上に恭しく捧げ載せるという具体的な作法(袈裟頂戴)を目の当たりにし、深く感銘を受けました。この作法は、袈裟を着用する際や洗う際にも行われるものであり、袈裟を教えの師や尊い仏舎利の塔(師想塔想)として扱うべきという教えに基づいています。
袈裟は、仏弟子であることの標幟(目印)であり、それを護持することは、大乗の教えの究極の秘訣とされます。道元禅師が強く感動し、涙を流した理由は、この作法自体が、経典(阿含経)で知識としては知っていたが、日本では失われていた「正しい伝統の儀式(儀則)」だったからです。この儀式は、仏祖が代々親しく伝えてきた教えの「堂奥」に学ばなければ知ることができないものとされていました。
祖師の「正伝」と辺地の悲哀
道元禅師の感動の裏には、自らの故郷である日本に対する深い悲哀の念がありました。彼は、日本を「遠方辺土の澆季」(遠方辺地にある末世)と捉えており、正しい師や善友がいなかったために、この重要な仏衣の作法を知らず、貴重な修行の光陰を無駄に過ごしてしまったことを悔やんでいます。
彼にとって、袈裟を正しく伝えて着用する僧と肩を並べて修行すること(隣肩すること)は、「宿善」、すなわち前世からの善根によって実現した、計り知れない喜びでした。袈裟の功徳とは、それがたとえ戯れに着けたものであっても得道(悟り)の因縁となるほど広大ですが、清浄な信心をもって、仏祖が正しく伝えてきた作法(正伝の袈裟)によって護持する功徳は、更に最高最上のものだとされています。
袈裟は、仏の皮肉骨髄を今日に正しく伝えているものであり、これを身に着ける者は、煩悩の毒矢も害することのできない堅固な金剛の甲冑を着ているようなものです。袈裟の力は修行者の猛烈な精進の力(猛利恆修)によるものではなく、袈裟の持つ不思議な神力によるものだと説かれています。
まとめ
道元禅師が、袈裟の正しい作法を目にして感激の涙を流したエピソードは、形骸化してしまった伝統的な行いを、再び仏法の核心として見つめ直す重要性を教えてくれます。
袈裟は、着用する者に慚愧の心を具足させ、邪心がなくなり、煩悩を断つ良田となり、無上の悟り(無上菩提)を成就する護身符となるのです。私たちは、この袈裟の功徳を知り、仏道を志すならば、わずか一日一夜でも、この尊い仏衣の教えを護持し、敬い大切にしていきましょう。形式的な行いの中にこそ、深い精神的な意味と、仏法を護り伝える確かな力が宿っているのです。
クイズの答え
答え:B. 自身の頂上(頭の上)
解説:「袈裟をささげて頂上に安じ」とある通り、袈裟頂戴の作法では、袈裟を捧げ持って頭上に載せます。これは、袈裟を師や仏舎利の塔(塔想)のように尊ぶためであり、袈裟を洗う時や身に着ける時に行われる重要な作法です。道元禅師は、この作法が故郷日本では知られていなかったことを深く嘆きました。

