道元禅師が説く「正伝の袈裟」の真意とは?

直七法衣店4代目ナオシチです。今日もみんなで袈裟功徳について学んでいきましょう。
3択クイズにチャレンジ!答えは最後に。

袈裟の「正伝」について道元禅師が特に強調した理由は何だと思いますか?

  • A. 袈裟の素材が最高級の絹であるべきだと考えたから。
  • B. 袈裟が仏の教えそのものであり、正しい伝承の証であると信じたから。
  • C. 袈裟を身につけることで世俗的な名声や富が得られると説いたから。

記事を読み進めて、その答えを見つけてみましょう。


原文

如来(にょらい)の正法(しょうぼう)は、西天(さいてん)すなはち法本(ほうほん)なり。
古今(ここん)の人師(にんし)、おほく凡夫(ぼんぷ)の情量局量(じょうりょうきょくりょう)の小見(しょうけん)をたつ。

仏界(ぶっかい)衆生界(しゅじょうかい)、それ有辺無辺(うへんむへん)にあらざるがゆゑに、大小乗(だいじょうしょうじょう)の教行人理(きょうぎょうじんり)、いまの凡夫の局量にいるべからず。

しかあるに、いたづらに西天を本とせず、震旦国(しんたんこく)にして、あらたに局量の小見を今案(こんあん)して仏法とせる道理、しかあるべからず。
しかあればすなはち、いま発心(ほっしん)のともがら、袈裟を受持(じゅじ)すべくば、正伝の袈裟を受持すべし。

今案(こんあん)の新作(しんさく)袈裟を受持すべからず。

現代語訳

釈尊の正しい教え(仏法)は、インドをその源とするものです。古くから現代に至るまで、中国の多くの指導者たちは、自分たちの凡庸で狭い考えに基づいて、誤った見解を立ててきました。

仏の世界も、我々衆生の世界も、それは有限でも無限でもない(特定の形にとらわれない)ものですから、仏法の根本的な教えや修行、そしてその真理は、凡夫の狭い考えに収まるものではありません。

であるにもかかわらず、むやみにインドの正法を根本とせず、中国において、新たに狭い見解による仏法を作り出している現状は、あってはならないことです。

ですから、今、仏道を志す人々は、袈裟を身につけるのであれば、正しく伝えられてきた袈裟を受け継ぎなさい。現代の思惑で新しく作られた袈裟を身につけてはいけません。

語句説明

  • 如来の正法(にょらいのしょうぼう): 釈迦牟尼仏の正しい教え、真実の仏法
  • 西天(さいてん): インドのこと。仏教が生まれた地を指す
  • 法本(ほうほん): 法の根本、源流
  • 凡夫(ぼんぷ): 煩悩にまみれた普通の人間
  • 情量局量(じょうりょうきょくりょう): 感情や狭い見識に基づいた、恣意的で偏向的な考え
  • 小見(しょうけん): 狭い見解、浅はかな考え
  • 有辺無辺(うへんむへん): 有限であるとも無限であるとも言えない、相対的な区別を超えた状態
  • 大小乗(だいじょうしょうじょう): 仏教の二つの主要な教えの分類。衆生を救済する範囲の広狭による
  • 教行人理(きょうぎょうじんり): 仏の教え、その実践、修行者、そしてその真理
  • 震旦国(しんたんこく): 中国のこと
  • 今案(こんあん): 現代の思惑や考え方
  • 発心(ほっしん): 仏道を志すこと
  • 袈裟(けさ): 仏教の僧侶が身につける衣。壊色(くすんだ色)に染められた布を縫い合わせたもの
  • 受持(じゅじ): 受け入れて護持すること、大切にすること
  • 正伝の袈裟(しょうでんのけさ): 仏祖から代々正しく伝えられてきた袈裟
  • 新作袈裟(しんさくけさ): 新しく作られた袈裟、伝統的な作法に従わない袈裟

解説

袈裟は単なる衣ではない

道元禅師にとって、袈裟は単なる衣服ではありませんでした。それは「諸仏の恭敬(くぎょう)帰依しましますところなり。仏身なり、仏心なり」とまで表現される、仏法そのものを象徴する存在です。

袈裟を身につけることは、煩悩から解脱するための「解脱服(げだっぷく)」であり、福をもたらす「福田衣(ふくでんえ)」であり、この上なく優れた功徳を生む「無上衣」であると説かれています。

なぜ「正伝の袈裟」なのか?

道元禅師が袈裟の「正伝」をこれほどまでに強調したのは、仏法がインドから中国、そして日本へと正しく継承されてきたことに深く関わっています。

彼は、釈迦牟尼仏から摩訶迦葉(まかかしょう)に伝えられ、インドで28代、中国で6祖慧能(えのう)まで5代(合計33代)にわたって、仏法と袈裟が「嫡嫡面授(てきめんじゅ)」、つまり嫡子から嫡子へと直接受け継がれてきたと信じていました。

この「正伝の袈裟」は、単なる形や素材の問題ではありません。
例えば、道元禅師は、中国の律宗の祖である道宣(どうせん)が天人から教えられたとする袈裟の新しい作り方を厳しく批判しています。
道宣が説いた「化絲(けし)の説」(絹糸は蚕の繭から作られたため殺生にあたらないという説)を「笑うべし」とし、どんな糸も「化」(生命活動の産物)である以上、特定の素材にこだわるのは「馬鹿げた考え」だとしました。

袈裟の材料は、粗末な麻や綿が本来ですが、状況に応じて絹なども許されるとし、重要なのはその布が「清浄」であること、そして「糞掃衣(ふんぞうえ)」として用いられることだと強調しました。糞掃衣とは、人が捨てたぼろ布を拾い集めて作った衣であり、「最も第一の清浄な衣材」とされます。
素材そのものよりも、「絹布の見をなげすてて、糞掃を参学すべきなり」と、その本質を理解することの重要性を説きました。

形が本質を現す

道元禅師は、坐禅(ざぜん)と同様に、袈裟を身につけるという「形」が、修行者の「内面」「本質」を作り上げていくと考えていました。
たとえ遊び半分や自分の利益のために袈裟を身につけたとしても、それが仏道を悟る「因縁」となると説き、「一度でも袈裟を身体にまとい、ほんの少しの間でもそれを護持すれば、それは必ず無上の悟りを成就する護身の札となる」と述べています。

日本における袈裟への憂慮

道元禅師は、自身の時代(鎌倉時代)の日本が、インドや中国から遠く隔たった「辺地」であり、「末法悪時世」にあると認識していました。
そのため、当時の日本の僧侶が袈裟を軽んじ、その正しい知識や着用法を知らないことを嘆いています。

彼は、自身が遥か宋の国で、正しく袈裟を頭上にいただく修行僧の姿を見て、「初めてそれを見ることが出来たという思いで、歓喜のあまり感激の涙が人知れず落ちて衣のえりを濡らしました」と記しています。
この経験は、彼にとって「宿善(しゅくぜん)」(過去世に積んだ善根)による「この上ない喜び」であり、その正法と袈裟を日本に伝える「使命感」を強く抱かせたのです。


問いかけとまとめ

道元禅師がこれほどまでに袈裟の「正伝」にこだわったのは、それが仏法の真髄であり、師から弟子へと受け継がれてきた「生きた教え」そのものだと考えていたからです。
私たちの日常生活において、袈裟を身につけることは稀かもしれません。しかし、何かを学ぶ際、その「本質」や「原点」を大切にし、形から入ることで内面を整えるという姿勢は、現代を生きる私たちにとっても、多くの示唆を与えてくれるのではないでしょうか。

あなたにとっての「正伝の袈裟」は何でしょうか? それは、あなた自身の心のあり方や、日々の行動の中に、どのように現れているでしょうか?


クイズの答え

冒頭のクイズの答えは B. 袈裟が仏法そのものであり、正しい伝承の証であるから です。

  • Aは、袈裟はむしろ粗末な布が最上とされ、豪華さは重視されません。
  • Cは、道元禅師は名利(名声と利益)のために仏道を行うことを戒めています。

道元禅師は、袈裟そのものが仏の教えの真髄を体現しており、その正しい伝承こそが仏法の命脈であると深く信じていたのです。

この記事を書いた人

直七法衣店 四代目 川勝顕悟


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